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私たちの活動

【東北支援】3・11、南三陸のいま

被災地でまた一つ、「復興」が実を結んだ。
ひな祭りの3月3日、宮城県南三陸町。「南三陸さんさん商店街」再開の式典が開かれた。約2万平方メートルの広い高台にずらりと並ぶ鮮魚や海苔、カフェなどの28店が一斉にオープンした。それぞれの店先は海鮮丼をほおばるカップル、客と談笑する魚屋の店主、長い列をなす観光客たちの姿でにぎわいを見せた。

さんさん南三陸さんさん商店街の再開式典

6年前のあの日、商店街は津波で壊滅的な被害を受けた。それでもその1年後、店主らが仮設の店を再開。それから国内外多くの人に支えられながら、5年の時を経てこの日、本格的な再開にこぎつけた。元の土地から南東約600mに移り、8m以上の土を盛った海抜10・3mに建てられた。新設された建物は地元の杉を活用した平屋建ての6棟からなり、「人間的な空間を」と各棟に縁側をイメージしたひさしが施されている。
「日本や世界からお越しいただける町を目指し、復興の見本になれるよう努力します」。式典で、商店街を手掛ける「南三陸まちづくり未来」代表取締役の三浦洋昭さんはこう宣言した。佐藤仁町長も「全国から受けた復興支援に感謝します。津波で店を流されたけれど、今日復帰できた店主も多い。これまでの努力に敬意を表したい」とたたえた。
一方、周辺はまだ大規模なかさ上げ工事が続く。まさに「ピラミッド」、のような土台が次々と完成しているが、北側の駐車場の完成にはまだ時間がかかるという。また、新たな町の集落と距離があるうえ、町が進める商業施設や復興記念公園などの計画はまだ区画整理の段階だ。さんさん商店街で阿部茶舗を営む阿部忠彦さん(54)は「周辺環境の整備など、自分たちではどうにもならないことも多く、歯がゆい。震災前と違って店と住まいが切り離されたため、お客さんの日々の動きがつかめるかも心配だ」と話す。
南三陸町では死者620人、行方不明者212人が出て、3143戸の建物が全壊した。2015年の人口は震災の前年から約5000人減り、約12400人になっている。町の高齢者率も3人に一人が65歳以上、という割合を超えた。また、新しい集落は津波が及ばなかった高台への移転が始まっているが、新居が未完成だったり、新居が決まっていなかったりといった理由で、いまだ仮設で暮らす人も少なくない。
高台にある志津川中学校の門付近に立ち、津波に流された沿岸部周辺に目を向ける。
「ピラミッド」が点在する合間を、何台もの重機が縫うように行き交っている。本当にまだ、「ピラミッド」だけだ。建物の気配はまだない。そこら中が工事中のせいか、町を歩く人の姿はほぼない。工事中の敷地内に、330人の避難者を津波から守った結婚式場の高野会館が埋もれるようにたっているのが見えた。
全体志津川中学校近くから見下ろした町(3月10日)
ピースウィンズ・ジャパン(PWJ)はこの6年、被災地にどう関わってきたか。
震災翌日から三陸沿岸に入り、最大30人態勢で食料や衣類、寝具、衛生用品などの配布にあたった。被災者たちが避難所から仮設住宅に移るタイミングに合わせ、生計支援から心のケアを始め、基幹産業だった漁業の立て直しにも関わった。PWJは当初からスタッフを常駐させており、現在は仮設住宅などで暮らす高齢者たちの交流の場となるよう、現地のNPOを支援する形で復興に取り組んでいる。
町の仮設住宅で暮らす山内さゑ子さん(69)は3年前からPWJが支援する手工芸の講習などに参加している。4畳半の部屋で暮らしていた日々。自宅は流され、家族も一時避難するなどして離れ離れになった。「狭い部屋にいると、気持ちがふさぎ込んだ。なかなか前に進めなかった」と振り返る。PWJの活動を知ったのは、そんな時だった。
仮設で知り合った人から誘われ、講習に足を運んだ。同じように、震災で傷ついた人たちが集まっていた。作業をしながら、好きなテレビ番組の話をしたり、暮らしの悩みを相談したり。いつの間にか、「家族のように親しくなった」。週2、3回、交流の拠点施設「ハレバレー」に通う。最近の楽しみは、カラフルな建築廃材を再利用して作る「エコ平板」。一つの板がうまく仕上がった時、それをたくさん並べて一つのアートとして完成した時の、達成感がやりがいだという。「明るく、前向きになれた。子供や孫たちのためにも、長く、元気でいたい」。
山内さん山内さん
同町出身で、実家の鮮魚店も被災したPWJ東北事業担当の西城幸江(35)は、発生当初から駐在している。この6年間、町の歩みを目の当たりにしてきた。これまでの活動や今後の意気込みについて聞いた。
ーー6年を振り返ってどう感じているか
「日常を取り戻す。これを自分なり一つの指針としてきました。私たちNGOは行政の手が届かないところをサポートしますが、壊滅的な被害に遭った故郷を前に、自分に何ができるのか。何をすべきなのか。悩みました。私の両親は町の海に近い場所で鮮魚店を営んでいます。この町の海で採れる、新鮮な魚が何よりも美味しいと身に染みていました。津波は、それすらも私たちから奪った。被災者でもある自分の境遇に立ち返った時、町の貴重な資源を取り戻したい。そう考えるようになりました。こういった流れから、漁業組合、商工会、役場などを通じた漁業や商工業を支援する事業を展開しました。これによって、船や港などすべてを失って途方に暮れる地元の人たちが、自ら物事を判断して前に進む「日常」を取り戻す手伝いができたのではないかと思っています」
ーー今後の課題、支援の方針は?
「高齢者たちの憩いの場が、ハレバレーのような活動を提供する場に定着してほしいと思っています。ハレバレーで活動に参加していただいた高齢者の皆さんはみるみるうちに元気になります。今春にはカフェスペースがオープンする予定です。カフェでお茶をしてお友達としゃべる、手工芸にいそしむ、地域奉仕作業に加わる、といった様々な目的で人が集うようになれば。障がい者の子供たちが活動するスペースもあり、幅広い世代や観光で訪れた人たちも居心地が良いと思う空間をつくり上げ、その雰囲気の中から生まれる活動やアイデアを生かして地域を盛り上げて行きたいと思っています」
「『いつか津波が来る』と、1960年のチリ地震津波を体験していた祖母や家族からよく聞かされていました。毎年5月に避難訓練があり、自宅が海に近かった私たち家族はできる限り参加していました。しかし2011年、故郷の姿が影も形もなくなってしまった。当たり前にあった日常が消える。その衝撃は、6年が経った今も、言葉では言い表せません。
3・11(サンテン、イチイチ)。
この言葉が定着する一方で、年月とともに支援は確実に減っています。この日だけでも、思いをはせてほしい。PWJの一員として、被災者の一人として、そう願っています」

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