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【東北支援】震災3年:支援を振り返る1/後編 「PWJは『ダメ』とは言わない。常に『やってみます』と」

▼前編「灯油、ストーブ、学用品… 本当にうれしかった」から続く
「今は支援を受けよう、大人になったらお返ししよう」
2011年3月11日の東日本大震災がなければ、5月に例年通り、実施されていたはずの宮城県・気仙沼市立気仙沼中学校3年生の修学旅行。10月に延期する方針が決まったものの、多くの生徒が被災し、実施は危ぶまれていました。
「子どもたちは『行きたいが無理だろう』と言うし、先生方もあきらめていました。そこでピースウィンズ・ジャパン(PWJ)に、『東京に連れて行けないか』と相談しました。PWJは『どうにかなるかも知れない』。企業の研修所に泊まれるのではという話もありましたが、旅館業の許可がないと泊まれないということなり、この話はなくなりました。しかし、PWJを通じて震災復興を支援していた企業の紹介で、まとまった額の宿泊費を提供してくれる人がみつかりました。さらにやはりPWJの縁で、サーカスの公演に招待してもらえることになりました。当日は、最後に出演者と交流できるサプライズまで。その他、卒業生やロータリークラブなどからバス代、新幹線の切符代などの寄付もあり、約6万円かかるところを約2万円の費用で行くことができました」
「子どもたちには『今は支援をいただこう。大人になったら、いつかお返ししよう』と話して卒業させました。いつかはやってくれると思うし、それが教育だと思います」
PWJは、希望を聞いて実現へ動いてくれる、押し付けはしない
「PWJはこちらの希望、要望をしっかり聞いてくれます。そして、できるだけかなえるように動いてくれる。決してダメだと言わない。希望、要望を受け止めてくれて、『やってみます』と。押し付けもしない。私は地区の校長会の会長もしていたので、他の校長に、こういう風に話をすると、こういう支援も受けられるなどと話をしました。それを受けて、動いた校長もいたと思います」

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写真:アメリカ・オレゴン州ポートランドの学校で、震災について話す齋藤さん(2012年5月)

「2012年5月、PWJの橋渡しで、アメリカのオレゴン州ポートランドへ行き、震災後の状況や津波のときの避難対策について、4~5回、講演しました。向こうには、災害時に学校が避難所になるという発想がない。防潮堤もない海岸沿いに平屋建ての学校が建っている。『こっちへ逃げろ』という看板は設置されていましたが、地震や津波が来たら、親が子どもを迎えに来て、車で逃げるという考え方だったようです。講演後、学校を高台に移転するという話が出ていると聞きました」
「震災のとき、避難所になった学校でどんなことがあったのか、校長たちの記録は、気仙沼市立学校長会、気仙沼市教育委員会、宮城教育大学がまとめた『記録「東日本大震災」 被災から前進するために』にすでに書いています。それに加えて、外には出さない学校のための記録づくりを進めています。写真も当時、かなりの枚数を撮っていますので整理して残しておきたいと思います」
仮設住宅で校庭が使えないままに卒業… 移転時に支援必要
「震災からの復興は遅いと思いますね。仮設住宅は2年という約束で始まったのに、すでに3年。集団移転の工事がやっと始まりましたが、移転できるようになるまで1年、2年かかる。行政の方でも頑張っていると思いますが。仮設住宅が校庭に建って、一番心配したのは、子どもたちが校庭を使えないまま卒業していくことでした。それが現実になってしまう。子どもの体力に影響が出ていると報道されているし、学力にも影響は出るのではと心配です。震災のときの体験の影響も出てくるかも知れません」
110418気仙沼中の校庭に建設する仮設住宅110418気仙沼中の校庭に建設する仮設受託
写真左:気仙沼中学校の校庭に建設される仮設住宅、写真右:校庭に完成した仮設住宅(2011年4月)
「仮設住宅から集団移転先、集合住宅に移るときに、また支援が必要になると思います。自分の叔父も、老人2人で暮らしています。本当に限られたものしか持っていません。今後2~3年、支援していただけるといいと思います。いつまでも甘えていられないという人もいますが、そうでない(高齢者など支援が必要な)人もいます。自分で家を建てて仮設住宅を出た人は、『残っている人に申し訳ない』と思っている。私も海岸線に住んでいたわけではないので、被災した人に申し訳ないと常に感じています」
「集団移転事業が進んでも、被災した人が本当に家を建てることができるのか。元々住んでいた場所の土地を売っても、その売ったお金では家を建てられないという話も聞きます(注:2014年3月現在、集団移転先の土地の分譲価格などは明らかになっていません)。津波対策として、莫大な金を使って、でっかい防潮堤をつくろうとしています。どんなものをつくっても、自然の力の前には、大地震が起きたら高台に逃げるしかなく、自然と共生するしかないのではないかと思います」
「生きがいサポートセンター」(仮称)のパースIMGP3745_Re
写真左:PWJが進める「生きがいサポートセンター」(仮称)の完成イメージ
写真右:センターの活用方法について、住民の有志が参加して議論
「PWJは、気仙沼市の隣の南三陸町で、高齢者や町の人が集まる『生きがいサポートセンター』(仮称)をつくり、高齢者らへ仕事の紹介をするシルバー人材センターの機能を立て直そうとしています。ものをつくるだけではだめなので、こうした取り組みは素晴らしいなと思って注目しています」
【取材・構成 三澤一孔】
 
齋藤一(さいとう・はじめ)さん110405気仙沼中学の生徒たちとPWJ山下_Re
1952年、宮城県気仙沼市生まれ。気仙沼高校、福島大学を卒業後、教員になり、2009年4月から2012年3月まで、同市立気仙沼中学校で校長を務めた。震災後は避難所運営や外部の支援者との折衝にもあたった。

生徒とともに。写真右から3人目が齋藤さん(2011年4月)
▼関連リンク
『記録「東日本大震災」 被災から前進するために』(PDF)
 

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