ピースウィンズ・ジャパンは、紛争や災害などの脅威にさらされている人びとに対して国内外問わず支援活動を行うNGOです。

地域復興・教育

Reconstruction

2014.3.11

【東北支援】震災3年:支援を振り返る1/ 前編「灯油、ストーブ、学用品…本当にうれしかった」

日本 地域復興・教育

東日本大震災から3年がたちました。3月11日をすぎて全く新しい1日が始まるわけではありませんが、大きな節目であることは間違いありません。ピースウィンズ・ジャパン(PWJ)は震災発生直後から緊急支援を開始し、その後も支援を続けています。今後の支援を考えるうえでも、これまでの取り組みを振り返ることは重要だとの考えから、PWJの活動に深くかかわっていただいた方々に、現在の復興への見方とともに、PWJとのかかわりや支援活動についてお聞きしました。最初は、宮城県気仙沼市の同市立気仙沼中学校の前校長、齋藤一さんです。 【取材・構成 三澤一孔】
 
齋藤一(さいとう・はじめ)さん1
1952年、宮城県気仙沼市生まれ。気仙沼高校、福島大学を卒業後、教員になり、2009年4月から2012年3月まで、同市立気仙沼中学校で校長を務めた。震災後は避難所運営や外部の支援者との折衝にもあたった。

 
 
最初は警戒、でも支援してもらえるなら、と
PWJが宮城県気仙沼市での支援を決定したのは、震災発生翌々日の2011年3月13日。市の災害対策本部に支援の必要性が高いところを確認したところ、齋藤一さんが校長を務めていた気仙沼中学校を紹介されました。同校には約800人が避難してきていて、市内最大の避難所となっていました。

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写真:ストーブで温まる気仙沼中学校の避難者(2011年4月4日)

 「最初は、PWJのことは全然知りませんでした。『どういう人たちなんだろう?』と警戒感が先に立ちました。車で学校へ向いながら話をしているところをビデオで撮っていましたし(密着取材のテレビ局のカメラ)。校長室でPWJの話を聞いて、そういうことであれば、と支援を受けることにしました。困っているし、支援してもらえるなら、と」
「電気は全く使えませんでした。電気がなくても使える反射式の石油ストーブが十数台あって、子どもたち(生徒)と被災者がいる保健室の分として5台使うことにし、残りを避難者がいた体育館で使うことにしました。PWJは最初、灯油2000Lとりんご2000個、それにバナナなどを、『必要でしょう』と持ってきました。灯油はありがたかった」
灯油は関東で調達したもの。果物は、おにぎりだけだと栄養は偏るし、野菜は料理しないといけないとして選びました。PWJは、こうした物資をヘリコプターに積み込み、市内の大型ショッピングセンターの屋上に着陸させ、物資を運び入れました。

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写真:気仙沼中学校でPWJはリンゴやバナナなどを提供した

「次にお願いしたのは石油ストーブ。『避難所となっている教室に1台ずつ置きたい』と。関西で集めたと、持ってきてくれました」
「その次にお願いしたのは、子どもたちの学用品。子どもたちの半分くらいが被災していて、学用品も流されてしまっていました。後日届きましたが、ノートと鉛筆、消しゴムが袋に入っていて、リボンがかかっていました。うれしかったですね」
「お願いすると持ってきてもらえるとわかってきました。次にお願いした大きなものは、スリッパでした。震災発生から2週間くらいは、避難者を土足のまま校舎内に入れていましたが、衛生上からも上と下を区別したいと、スリッパ600足をお願いしました。到着に合わせて、部屋(教室など)もトイレも班ごとに掃除して、きれいにしました」
気仙沼中学にて物資配布(鈴廣かまぼこ他)110330110606PWJによる辞書提供(気仙沼中)01_oishi
写真左:PWJは被災した子どもたちに辞書を配布した
写真右:避難している人たちにも、多くの協力を得て、各種の物資を提供
自分たちでできることは自分たちで
どのような支援が必要か、言ってもらえない避難所もあるなか、必要な支援を明確に伝えてもらえるのは貴重でした。しかし、齋藤校長の 避難所運営は、すべてを支援に依存するというものでは決してありませんでした。
「震災2日目。市教委から派遣された指導主事の発案で、先生だけではなく、避難している人に協力してもらって、学校周辺の地域を回って毛布を集めました。200~300枚、集まりました。これは後でおしかりをいただきました。寒いし、腹減っているし。ビスケットが1人に1枚とか2枚、おにぎりがやっと1人に半分とかでした。『俺たちにそういうことまでさせるのか』と。友人からも『一ちゃん、こんな状況の中でここまで言うのか』と。でも毛布がなければ、今日の夜から困る。私もつい、声が大きくなって、『こんな状況だから協力してください!』。体育館のカーテンをはがして、何人かでくるまっている状況でした」

110404気仙沼中学の伝言版
写真:避難所となった気仙沼中学校内に設置された生徒への伝言板(2011年4月)

「学校に避難している子どもたちを中心にボランティア活動をさせました。『気中ボランティア』というカードを首にかけさせて、子どもたちを使って、避難している人たちにいろんなことを見てもらいました。雪が積もったら、雪かき。すると、『子どもたちもしてるんだから、やらなくちゃ』と避難している大人たちも一緒になってする。廊下の掃除をする。トイレ用の水をプールからくんでくる。タバコの吸い殻も学校の周りで拾う。学校のある地域は町場なので、会社で被災し避難してきた人が多い。避難者同士も知らないからあいさつをしない。そこで子どもからあいさつするようにすると、みんながやる。子どもたちの動きは、やはりかなり大人に影響を与えます」
「体育館に近い教室を、10~20教室開放して、避難してきた人たちに使ってもらいました。指導主事が中心になって教室ごとに代表を決め、連絡や要望は代表を通す、と自治組織をつくりました。集団づくりは、学級づくりと同じです。たまたま市教委から指導主事の先生2人が派遣されてきました。先生なので、集団を指導することに慣れている。これも大きかったと思います」
震災から2か月後の5月には、本来であれば大きな学校行事が実施されるはずでした。3年生の修学旅行。被災し、家や職場を失い、あるいは家族を失った家庭には、その旅費は大きな負担です。子どもたちも、先生方もあきらめかけていました。齋藤校長からPWJに相談がありました。「東京に連れていってもらえないか」。
▼後編「PWJは『ダメ』とは言わない。常に『やってみます』と」に続く

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