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【イラク】現地スタッフインタビュー(上)安全な場所を求めて逃げ続ける

ピースウィンズ・ジャパン(PWJ)のイラク事業の現地スタッフには、難民、国内避難民になった経験を持ち、2013年6月からシリア難民やイラク国内避難民支援のプロジェクト・アシスタントとして携わっているイラク人スタッフがいます。今回は、彼女の体験や彼女の人道支援という仕事にかける思いをお伝えします。
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1991年5月30日、サダム・フセイン政権による圧政を恐れ、多くのクルド人がトルコやイランに逃れました(写真)。当時、先行きもわからず国を追われたクルド人の中に、私の家族もいました。私はまだ4歳でしたが、当時のことは忘れられない思い出として記憶に残っています。

イラク

家族で夕食を囲んでいるところに、恐怖で強張った父が突然帰ってきて、服や食べ物をまとめて逃げる準備をしなさいと言ったのです。私たちはとても驚きましたが、母が衣類やパンを2つのバッグに詰めた後、叔父の家に移動し、80人の親戚とともに逃げました。
当時母は妊娠していたため、洞窟に辿り着いて休憩をとりました。そこで妹が生まれ、私たちは7人家族となりました。しかし休んでいる暇はありませんでした。とにかく安全な場所に着くまでは逃げ続けるしかなく、毛布にくるんだ妹を抱きながら、母は歩き続けました。10日もの間、服や毛布を変えることもできず、寒さで妹が病気にかかって亡くなってしまうのではと心配しながら母乳を与え続けたと、後から母に聞きました。
悲しいことに、逃げるために赤ん坊を遺棄しなければならなかった人がたくさんおり、母も赤ん坊がいては逃げるのに足手まといになると叔父から何度も言われましたが、「この子が死ぬとしたら私が死んでから」と拒否しました。

イラク

私たちは20日間かけて山々を越えましたが、悲しみ・飢え・絶望・疲労感でいっぱいでした。やっとの思いでトルコのチャレ村に着き、親戚みんなで住み始めました。私がよく覚えているのは、木の吊り橋を渡っているときのことです。
揺れる橋の下は深い底になっていて、父は食べ物や毛布が詰まったバッグを背負い、死にそうな弟を肩に担ぎながら私の手を引いていました。「もうくたくたで歩けない、揺れて怖い、私もおぶって」と言いましたが、疲れ切った父は歩きなさいと答えました。それでも「おぶって!もう嫌だ、歩かない!」と叫んだ私の顔を、父は思い切りひっぱたいたのです。
この時のことを私は一生忘れないでしょう。お父さんなんか大嫌い、もう私に話しかけないでと泣きながら歩きました。橋を渡り切ったところで待っていた母の元へ駆け寄り、私は父の文句を言いました。いま思い返すと、自分が父の立場なら同じことをしたでしょう。あのとき父がひっぱたかなければ、私たちは橋を渡り切れず、家族が命を落としていたかもしれないからです。

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野宿するクルド人家族

逃げ続けて20日後にチャレ村に着いた後、私たちは2ヵ月そこに留まりましたが、テントや住めそうな場所がないうえ、雨だけでなく雪も降りました。その後、アメリカや欧州連合(EU)の支援が始まり、テント・食べ物・衣類などの生活品をヘリコプターから落としましたが、取り合いの末に落下する物資の下敷きになって命を落とした人が数百人も出ました。私たちは父と叔父が確保した2つのテントで寝泊まりしましたが、マットレスが手に入らず、麻袋を敷いてその上で寝る生活をしていました。
ある雪の夜、マットレスも暖房もないので、寒さをしのぐため、大人数が身を寄せ合って寝ていました。ただ小さいテントにもかかわらず大人数でテントがぎゅうぎゅうだったため、4歳のいとこが知らないうちにテントから出てしまったことに誰も気づきませんでした。翌朝、母がその子が雪の中に埋もれる形で寝ているのを発見しましたが、2日後に亡くなってしまいました。当時、私の一番の遊び相手だったので、亡くなってしまって、もう一緒に遊べないという事実を受け入れることができませんでした。
                                  (下)一児の母、人道支援に携わる者として」に続く

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